イッシーさんのブログ

サラリーマン俳優兼落語家の「演じること」を模索する日々の独り言

無とは無限に有る事

出来ないあせり、何か従属するものに対する引け目、出来そうな時の安心。つなぎ止められた安堵と脱力。前者から離れると、すぐさま後者に飲み込まれる。
まるで水に浮かんだ油粒がより大きな油粒に吸い取られるように。
でも、本当はその間の生粋の存在による自由がある。何の保証もない、否、自分自身の果てしない多重構造の中の究極の自由が。底無しの自由。それこそが生きること。不安と得意の間の自由に生きる。禅がいう真理からの忌避。
さて、そこへ連れていかない原因が愛なのか?それともそこへの動機が愛なのか?家族愛。自己愛。知識欲。。。
まわりの嫌な気になる人は不安。好ましい人は安堵と保証を象徴。前者を消し、後者を増やそうという努力は、自由の放棄。それらをあるがまま受け取り、その結果始まる、起こる自分をそのまま流れを自在に操るのが技。つまり意図をすっと他人へ伝える。その自由が欲しい。


その自由は呼吸法も同じ。自由を忘れて、存在、身体に集中。今、ここ、それ、だけへの特化。


それは過去と未来にこだわり、それを作っている今を忘れているということか。だから、何も変わらず、お釈迦の手の中と言うこと。


科学と宗教。答えは全て自分が持っているのに、なぜ外に固定化しようとするのか?死を見つめないから。死をないものにして、自分の人生ではあり得ない普遍性と固定化の憧れを科学という本来な「ない」神の目線の客観性に生を固定化しようとして不幸を創造している。
死を知るからこそ今をしる。科学の為に人は今を殺し過去と未来だけに生きようとする。死を自覚し今しかないことを知り、あるがままの身体を今できること。今の事が未来にどう評価されるかで今を生きず。過去の評価がこうだからここまでしないと未来がない。とも、考えず、今したいことの為に身体がどう置かれるかに集中し、その瞬間の具現で身体に帰ってくる効力だけで人生を評価すべきだ。
なぜなら、それらの過去や未来の保証を求めた動機は、今を生きた時に切実に感じた今だけを捉えた時の強烈な心の動きからなのだから。


宗教は妄想、科学は冒涜。過去は冒涜、未来は妄想。今の為の身体で常にいる必要がある。


我々自身は宗教にも科学にも、過去にも未来にもいない。それは単なる人の憧れに過ぎない。我々は唯一、今にしかいない。その宿命を忘れて、今以外に生きようすがろうとするとないところに自分を持っていくことで酸欠を起こし生きながらにして死ぬ。


呼吸法で体を緩めることで勝手に息が入るの稽古より。


自分に境目が無いとすれば、関わる相手も自分。評価とかでなく感覚で思いやる。


でも、この感覚の為には、追い詰められた環境がいるかもしれない。死と隣り合わせ、受け応え一つで身体維持の危険。


返り血とズダボロを覚悟で己の正義の為に殴り込め! それが覚悟。


ソクラテス
食べる為に生きるのではなく、生きる為にたべる
つまり、仕事でも糧の為のしくみにエネルギーを使うのはナンセンスだということ。それにこだわるのは変。しかし、良く生きる為に食べる必要はあるから、そこはできる限りエネルギーを使わずに回る様にすべきだ。死を考え、どう生きるか決め、その為の糧とそれを得る方法は簡単にする。


死が不明なのは宇宙が不明なのと同じ。我々が誰でもない様に、宇宙も何者でも無い。全てが無であるとは、無限ということだ。禅の無とは無限である。マクロの先もなければ、ミクロの先も今や現代人の宗教である科学には無い。有るのは今ここに文字を打っている意思だけ。
宇宙の無限で空間的な自由が保証されているように、死は精神の自由の保証の担保なのだ。物質の有限を精神が求めるからどこまでもある。調べつくせやしないだろう。それはミクロの有限があるという精神の自由を保証してくれている。マクロもどこまでも宇宙があってくれているのは、マクロの有限があるばすだという、精神の自由を保証してくれている。死後があるばすだ、この生には意味があるばすだ、その追求の自由を死の不明さが、そして、同時にある生の不明さが保証してくれている。
分からない事が重要。重要なのは答えではなく、問いの方だ。科学が人生を教えてくれることはもうない。そう、もう気付いたはずだ。

2015 年