イッシーさんのブログ

サラリーマン俳優兼落語家の「演じること」を模索する日々の独り言

『わたし』と『すべて』

1

私は生まれる事も死ぬ事も(自殺以外は)自分では決められない。
肝心要の自分の生死すら儘ならない『わたし』とは何なのでしょうか?
生まれたばかりの赤ちゃんに『わたし』は無いようです。それが親などから「OOちゃん」と言われるうちに自分を「OOちゃん」と呼び出し、それが『わたし』に変わって行きます。
元は『わたし』など無く、私も『すべて』だったのです。
『わたし』など実態の無い概念でしかないということでしょう。『わたし』などない状態が本来の存在といえるのかもしれません。
2
我を忘れるという言葉がありますが、誰もが経験があると思います。例えば、昼から読み出した本が面白くてたまらず、気付いたら窓の外は真っ暗。まさに"我を忘れて"です。
しかし、その状況はその本が面白くてたまらない「私」が居て始めて成立します。面白がっているのは、隣の部屋の妻でも娘でもなく「私」なのですから。
そこから私には少なくとも意識の二重構造があることが導かれます。つまり、本を夢中で読んでると忘れ去られる『わたし』と本に夢中になる「私」です。

これらに思いつくままごく簡単にト書きを加えると、
『わたし』= 自分を対象の様に「OOちゃん」と呼んだものが変遷したもの。でも、関係性の中の対象に変わりないが、感じ方、動き方が他と違って特殊。例えば、他人が血を出しても痛くないが、『わたし』の場合は痛い。他人に胡椒を取ってと念じても取らないが『わたし』は取る。
「私」= あなたは誰? 『わたし』を使って何かに夢中になるあなた。何処かで『わたし』の人生や日常を滑稽と笑っているあなた。しかし、何一つ『わたし』の責任は取ってくれない、いつも突き放すあなた。居るのは分かっているけど、得体の知れないあなた。それが『わたし』から見た「私」。
。。。ん⁈ 
ここまで書いてふと思う。こう書いてるのは誰?
3
こう見ると常にこの存在は、常に『わたし』と「私」を行ったり来たりしている。あるいは混濁している。対象と主体の混濁。
物質は波であると最近の科学は言っている。それは見るとあるけど、見てないと無いとも。見える世界を説明する科学は、とうとう見えない世界と同じルーツに行き着いたのかもしれない。関係性がある時に私は存在し、関係性がない時、私は存在しない。その時の私は生きながら死んでいる。
存在が全て対価ならば、わたしとあなたが対価で、存在自体はその対価自体。
『わたし』も「私」も、存在の瞬間の為の無なのかもしれない。少なくとも『わたし』は。つまり、モノでいえば見られていない波の状態。そこでの存在は関係性を持つまでの可能性としての存在。確立的に存在し、関係性を持つまで位置は確定できない波。


人は言う。あいつは我を忘れてる。
何を忘れてるの?その忘れられた我とは誰?


任意に我を忘れて我を出す。それが生きること、否、死んでいないこと。それは我をすべてにする修練、鍛錬しか無い。


身体はコ、精神は全体


『わたし』も「私」


「私」こそが感情か? 体験していない。論理が飛躍し迎合主義になっている。


この世は夢、幻です。だからどうでも良いのではなく、だから、ちゃんと自由に自分に誠実に謳歌しなくてはいけない。そして、その夢、幻を体験する装置はこの身体のみ。だから、身体を自由に出来るよう鍛錬する。その自由度で世界が変わる。だって、その身体が感じられる事が全てだから。この世では関係性の瞬間だけいきているから。


ミクロもマクロも過去も未来も何もかもわからない。でも、存在している。何も分からないのに、存在しているのは、自由の為。考えることが、感じることが出来るのに、何一つ正解も結論もないことが、無いからこそ完全に自由なのだ。それなのに正解や結論を求め、権力を思考する。この宿命。限りない推進力と果てしない道。凄すぎる。そんなステージを用意してくれて、さて、何をしようか。大切なのは問いの立て方だ。