イッシーさんのブログ

サラリーマン俳優兼落語家の「演じること」を模索する日々の独り言

私とは概念でしかない

あなたは誰ですか?と聞かれると人は関係性ばかり説明する。名前、出身地、学校、仕事、家族。それらは関係性。

存在は幾何学的にはx.y.z軸の座標でしかない。しかし、それを構成する点自体について、幾何学は無視している。

一方、物理学ではどうか。そこでは説明どころか、今となっては「特定出来ないもの」「存在しないもの」となってしまった。

我々の存在は形而下ではないのだ。
究極の存在を説明出来るとしたら、形而上も形而下もひっくるめて、それはわたしの感情でしかない。

何が好きなものなのか、何にワクワクするのか?そんな事がこの世の究極の存在などと言ったら馬鹿だと思われるのだろうか?

行為の動機は全て感情を満たすもの。科学を追求するのも、個人の承認欲求を人類ひとまとめにして証明したいから。人生への不安を解消したい感情によってだ。

しかし、その人生のカンニング不確定性原理の登場で徒労に終わった。科学と言う宗教は、結局人の生まれた理由を説明し得なかった。

物理学が存在を認めなかった以上、形而下も概念でしかない事が明らかになった。そして、全ての概念は感情を満たす行為が生み出したのだ。
感情を見る以外人は自分を具現化出来ない。

また、その事を理解する事で、人は死を越える。なぜなら、死は物理的な終わり、つまり、一定の概念形式が終わるだけで、究極の存在である感情の終わりとするには全く根拠がないからだ。感情がある種の確信とするなら、感覚的に死で終わるのは非常に無理がある。