イッシーさんのブログ

サラリーマン俳優兼落語家の「演じること」を模索する日々の独り言

帰着

散歩して夜の景色と空気に開放観と、数日前に新しく出会った人達と構えず晒す事で明日を一緒に考えられる不思議に、自我と自己を超えてこその命が静かに心に染み入る。このソラとの融合をこの命に思い、奇跡とその必然として帰着したかのこの命が、満たされる何かに対面させている。

今(いま)との闘い

演劇とは、人にとって唯一本当に存在している"いま"を認める、信じる訓練。
それを通して、"いま"でしかない命を本当に生きる試み。
その方法が、まるごしであり、相手に集中する事であり、記憶を呼びさますこと。"いま"を言い切ること。
それでも。"いま"はとてつもない速さで、常に過ぎ去り、我々は永遠に追い付けない。
我々は本当に存在している場に、根本的にいる事が出来ない。しかし、それが絶えることのない生きるエネルギーを生み、止まらない回転を起こす。

いるけど、いないから、いたくて止まらない。

生きるとはそう言う事。それを演劇はシステムから抜け出して純粋に試みる。でも、時々、いたくてたまらない"。

ソラ

一人にひとつの宇宙(ソラ)があり、この銀河(ウズ)の中で、太陽(ヒト)として生きる。

見ているものは見られているものであり、
見られているものは見ているもの。

見ている私は、見られているあなたであり、
見られている私は、見ているあなた。

ならば、輝く太陽は、私しか見ていないなら、
私は太陽であり、
またたく銀河を私しか見ていない今、
私はまた銀河。

時間も空間も、私が命を経験しているから、
そこにある。認識されて全ては初めて存在する。

それでしか私達は存在を証す事は出来ない。だから、宇宙はみな個人のもの。

神はいない、信じる必要もない。
なぜなら常に今この瞬間も人は神と全てと一体であるから。ここが、この時が神であるから。全治全能の中に私達は一体で"ここにある"のは事実だから。この私は限りなく自己を薄めた全体と同一化し"場"として存在する。その為に人は、物語と言う場を生き、場に自己を映し込み、その反映を感じる、或いは自我と言うしがらみから重心を物語、場、道などに移していく。その事で、エントロピーから脱して行く。

帰り道

わがまま勝手で、粗野で冷たく、人を傷付けて来た。それでも、この命が自分の物でなく、育ててくれた全ての人の物であり、本当に大切である事を知り、今は大事に育てようともがいている。そして、その同じ苦しみを人に見て、優しくなろうとしている。美しい心を掘り起こし、それが育った世界へ返す。