我々はテレビに似ている
私達が日々表している事は、私達の自我が生み出したものではない。1st source、神と呼んでも良いその意志が受信され、三次元に具体化している。それは、テレビの様なもの。
美しく見せられるか?
良い音を奏でられるか?
どこまで受信信号を鮮明に奥深く具体化するかはテレビの性能だが、そもそも何を創るかはテレビの役割ではない。製作会社が創った内容を見せるのがテレビの役割。
どこまで受信性能と解像度、音響性能を上げられるか。テレビが出来るのはそこまで。
拘るべきは、あるがままを受け取り、それを壊さず、どこまでそのまま表せるかどうか。
テレビ自身が放映内容を拘っても作り手ではないので徒労に終わる。
自己に拘るとはテレビが手の届かない製作会社の作品をどうにかしようとするような無駄な行為。我々がすべきはちゃんと受信できる心と身体を整えること。
下次元の表出は、表出者の似姿になる。我々が神の似姿の様に、機械も我々の似姿になる。